昭和48年 全日本合唱コンクール全国大会に出場した。(岡山)

コンクールを中心に

コンクールの功罪が合唱界で議論される中、渡辺先生は技術的なレベルアップにはコンクールは欠かせないものとして位置づけ、団員を鼓舞された。その結果昭和44年の中部大会において、前年までの全日本で三年連続優勝という輝かしい実績を持つ東海メールクワイヤーを破るという快挙を成し遂げた。ただ、そこへ行くまでの団内はどうであったか、地方のアマチュア合唱団が全国大会に出場できることなどは考えることもできなかった時代、幹部の役員は団員の職場の社長や上司に掛け合い、役場や教育委員会に行って、教員の出張を懇願し、一方では企業や個人の募金を募る、渡辺先生は全国大会の50名の人数制限に、80名の団員をどう選択するかという大問題に直面し、決して諸手を挙げて喜んだわけではなかった。それから数えて10年間連続で全国へ進んだが、無理に無理を重ねることで、団員確保が難しくなり、後半は姉妹合唱団の応援がそれを支えたが、昭和57年、長く岡谷合唱団を指揮された渡辺功先生が団を去ることになり、コンクールで一時代を築いた時は終わり、岡谷合唱団の新たな活動が始まった。