昭和41年は印象深い出来事があった。「3・8事件」なることである。前年のコンクール中部大会は全国の覇者「東海メールクワイヤー」に次いでの2位獲得に歓喜した団員の主力が、結婚などを理由に退団したり、欠席が目立つようになり、指揮者の渡辺先生が愛想をつかし練習場へ現れなかった。必死の団員募集により30名ほどの新人を得、再び先生を迎えて再建第一歩の演奏会が開かれ、テレビでおなじみの坂本博士氏を招いての印象深いものとなった。これを契機に渡辺先生が団員に提示したのがベートーヴェン「第九」と「ブラームス・ドイツレクイエム」であった。地方の一アマチュア合唱団がこの大曲を歌い上げることなど至難の業であった時代、日毎夜ごとにドイツ語の特訓を重ね、昭和42年7月第14回演奏会で2台のピアノによる「第九」を歌い、同年12月ABC交響楽団、指揮:前田幸一郎氏により初めてオーケストラで歌うことが出来た。その後の数年で秋山和慶氏、山田一雄氏のもと「第九」演奏に参加できた。
「ブラームス・ドイツレクイエム」はコンクールの自由曲として、昭和44年から47年までの4年間取り組んだ。コンクールでは昭和53年にも演奏している。演奏会での取組は昭和44年の定期で5曲を、ピアノ:川口耕平氏、Sop.solo 川口千枝氏、Bar,solo 平野忠彦氏で。昭和47年神奈川フィルにより全曲をSop.solo 中沢桂氏、Bar,solo 栗林義信氏で演奏。昭和55年には4曲を日本新交響楽団で演奏した。
渡辺先生は2曲目に出てくる「草は枯れ、花は落つ、人間の栄誉はやがて滅ぶ、されど、神の御言葉は永遠なり・・」というフレーズが大変お好きで、事あるごとに「やり直しのできない人生に、生きる意義を見いだそう」と皆を励まされた。