岡谷市立中央小学校4年生で学校の合唱班に入り、合唱コンクールに出場したのが合唱との関わりだった。「ひつじ」や「花のまわりで」が課題曲だった。守屋先生、横内孝夫先生が顧問だった。
中学に入り合唱を続けたかったが、合唱クラブは女子40名の女声合唱だったので、天文気象クラブに入り、3年間は一日も休まずラジオから聞こえる気象通報を記録したり、「ジャコビニ流星群」の観測をし文化祭で発表などもした。合唱はクラス対抗のコンクールで指揮をしり、合唱の好きな男子8名で「ダブルクァルテット」を組み、伊藤素子先生のもと楽しんでいた。
高校は天文気象クラブがなく地学クラブに所属して「八ヶ岳南麓における開拓農民」というテーマで何もない清里の牧草地を歩き回った。二年の春(昭和36年)のクラブ組み替え時に、合唱クラブに入るや、いきなり技術係を仰せつかり、サブパートリーダーとなった。その夏、合唱団の顧問である渡辺功先生から「岡谷合唱団の男声が足りないので手伝ってくれないか」と5〜6名のメンバーに声がかかり、合唱コンクール中部大会(富山市)に出かけた。これが岡谷合唱団に入団するきっかけとなり、今日に至る。