中村透編曲 『フォスター名曲選集』

2003年に私はコーラスみずべのために、フォスターの名曲を編曲して欲しいと中村透先生にお願いをした。一年後に編曲された楽譜と共に以下の送り状が添付されてきた。
 
「1847年、弟スティーヴンに代わって彼の作曲をコンクールに応募したところ、なんとほとんど同じ歌をうたった旅の一座が受賞をかっさらってしまった。盗作だと訴え出たところ、一座はそれをあっさりみとめて町を去った。かくのごとく、弟は金や名声にまるで頓着しない人間だった」。・・・☜(独白以下同) 法律家や、実業家の兄たちがついていて、なんで現実的な生き方をしっかりとしつけなかったんだ!
「彼の歌声は、実に耳に心地のよい柔らかなバリトンで、共感をよぶものだった。自作の歌をうたうときは、ほかの誰もがうたえないほど完璧で、涙を流す人たちすらいた」。 ・・・☜ いかに兄の書いた伝記とはいえほめすぎではないか。がしかし、ここのところは負けだなあ。なにしろぼくは人前で歌うのがいやで、作曲家になったのだから・・・。
 「食べ物にはまるで無頓着だった。いつも素食(=粗食)に甘んじ、食卓に出された物には気を配ることすらなかった」。・・・・☜ 勝ったぞ。自他ともにゆるすグルメのぼくは、ほんとうに食べたいものは女房を厨房から追い出し、自ら包丁をとるほど食生活ステージのグレードをあげつつあるのだから。
 「24歳、1回目のニューヨーク行きは、あまりのホームシックであえなく一年で帰郷。帰ると決めた日に家具を売り払い、真夜中に生家に舞い戻った。ポーチに歩をすすめたとき母はその足音に気づいて起きあがり、『スティーヴ、あなたなの?かえってきたのね?』とやさしく声をかけてドアをあけた。と、弟スティーヴはポーチのベンチにポツネンといて子どものように泣いていた。」・ ・・・・☜な、なんと!スティーヴ君はマザコンだったのか!その点ぼくはえらい、はるかな故郷をすててはや30年たつのに、母のところに帰りたいと思ったことなんて・・・・3回ぐらいしかない。
 という風に、一世紀半も前に故人となった米国人フォスターの歌をリメイクする難行に、う〜ん正直いうとオリジナル作曲家のぼくには苦行に近いのだけど、その難行苦行のマゾ的行為にただ甘んじることなく、ヴァーチャルな追憶を懸命にとばし、ともに音楽に生きる人としての共感を求めつつ、この仕事へのモティヴェーションを日々ひたすらモラル・アップしていたのだ。
 
 だが“コーラスみずべ”は、そんなことは想像すらせず、ただひたすら 「曲の上がりはまだか〜!」 「早く楽譜をよこせー!」と、釜揚げうどんの茹で上がりを待つ客のようにわめいていたのだった。そしてこれはほとんど確信なのだが、楽譜を手にした“みずべ”はきっと、徹頭徹尾自分たち風に歌いあげるにきまっている。だがそれで良いのだ。
スティーブ君も、スワニー河を見づしてメロディーヘの語呂合わせで名曲<故郷の人々>を作ったのだし、ほとんど想像で黒人スラングの<おおスザンナ><草競馬>等の旅芸人ミンストレル歌を作ったのだから。
 だいいち、誰が、どこで、どのように歌っていようがいまいがまるで無関心。今風ひきこもりオタクモードの作曲家だったのだ。だから、ぼくも勝手に誤解や妄想をかき立てながらドレス・アップの編曲リメイクをおおいに楽しんだ。
 
 そこで“みずべ”のみなさん、このフォスター曲集を諏訪ニー風に歌おうが、オールド・ブラック・ジョークになろうが、草競馬から落馬しようがかまやしない。おおいに観客、つまり故郷の人々を、夢路に誘うごとく楽しんで歌いあげてくれればこのうえなく嬉しい。
                                        2004.6