昭和12年(21歳)、初年兵で弘前の第八師団の輜重兵聯隊の馬部隊へ入隊。14年、中国山西省で野戦勤務。日曜日毎にはがきに馬の画を描いた。絵が好きなことが中隊事務室の耳に入り、中隊長や教官の命令で、講話資料の画や図形を描いた。仮想敵国の戦車や戦闘機の特徴など写真や図録を拡大複写した。除隊後、母校の諏訪中学校で教練を指導している時、佐原家に入った。二度目の召集は金沢の55部隊付で、諏訪商業と諏訪農学校の兼務で軍事教官を拝命した。敗戦となり、気力体力共に消耗し病に伏す。